寝泊りもしてみたけど、日付が変わる直前に息子が起きてしまい、そのまま脱落。ぽかぽかしたお布団で息子がやがて眠ったのを確認してから一人でイグルーに戻ってみたが、冷えてしまった寝袋に、硬い雪…それに、音のまったく伝わらない雪の壁に囲まれたなんとも言えない気分。朝2時ごろにお父さんも撤退。
2010年1月27日水曜日
佐内町のサイノカミ
小正月の存在を知ったのは、佐内町にお住まいの友人のおかげだ。日本にきたばかりの1月半ばに声をかけてもらい、神事にも、火祭にも参加させてもらった。道祖神や境の神の信仰が背景にあるといわれるこのサイノカミの伝統や有様について調べるのも、とっても面白いけれども、それからほとんど毎年訪ねるようになった佐内町の小正月にいつもいつも感動する。その感動とは、スルメイカを用意して毎年小正月に参加する大勢の人々の姿である。信仰を置いといて、地域を結ぶ伝統行事の力ってすごいといつも思う。火を囲み、お酒を飲みながら過ぎた一年の話に花を咲かせる。煙とともに消えてゆくお札や正月飾りとともに昨年も姿を消してしまい、よい一年の始まりなのだという気がする。
白
4年ぶりに越後らしい冬。道の脇に白い壁ができ、標識や看板が見えなくなる…野原から眺める山々が美しいけれども、雪って恐ろしい顔も持っている。雪道運転にはだいぶ慣れてきたけど、横転しているトラックや雪の壁に突っ込んだ車の事故をよく目にするこの時期。それに、この辺の雪は水分をたくさんを含んだもんだから、重たくて重たくて…屋根に積もった雪を下ろさないと、家が崩壊してしまう。ただし、雪下ろしのときに落っこちて毎年何人か死亡する。しけった雪に埋まってまったく動きが取れないまま、一緒に落ちた雪に上から閉ざされて数分で窒息してしまう。
今年は、一日一メートルくらいが積もったのは久しぶりのことだが、全体の積雪として大したもんではない。てはいえ、街にでもまだまだたくさん残っている。
撮影:niko
2010年1月18日月曜日
桑取谷西横山の小正月 (オーマラ - サイノカミ)
15日の夜。西横山の小正月はいよいよクライマックスを迎える。子どもたちが集めてくれた焼草と正月飾りを燃やす火祭りだが、道祖神信仰である西横山のサイノカミには、もうひとつの意味合いが潜んでいる。それはオオマラである。サンスクリットに語源があるこの言葉は男性のシンボルを指すのだ。頭のおおは間違いなく「大」を意味し、子孫繁盛の願いが込まれているだろう。たしかに、田んぼの真ん中にどうどうと立っているオオマラは男性の象徴に見える。それに、田んぼ。少なくても欧州の文化では、田や畑は女性の子宮に喩えられ、そこからすべてが生まれれてくるという思いは随分と根強い。田に種をまくというのは、農耕民族にとって性行為と同じものであった。
今日に至っても、村の男性陣は松明を振り回して「オーマラ、オーマラ」と叫びながら叩き合う。日常から脱線し、雪原を走り回りながら開放されているって感じ。暗い夜に明るい火。なんだか神秘的だ。別世界にいるような気分。叩かれた後に目の前を飛んでいく火花も天の川のようだ。火傷もまた男の勲章。
最後には、点火し、スルメイカを焼いて食べるなど、ほかの地域と大して変わらない光景。でも、耳の中ではまだまだ「オーマラ、オーマラ」と響いている。
写真・ビデオ撮影:niko
桑取谷西横山の小正月 (嫁祝い)
桑取谷西横山の小正月 (お禊)
今年は2回目だ。最初は観客としてのぞいてみようかと思ったが、声をかけられて参加することになったのだ。1月半ばの冷えた早朝。4時に起きてまずは車を掘り出さなければならない。まだまだ暗い中、桑取に向かって走る。
下にも雪、上にも雪。川には氷が流れている。吹雪の中で洋服を脱ぎ、ふんどし一丁になって川へ入る。今夜の火祭りに参加する前に身体を清めなければならないのだ。この冷たい清流は悪いものをすべて洗い流してくれるに違いない。そして気持ちがすっきりする。とってもすっきりする。生まれ変わったという感じ。
最後に、お宮で儀式が執り行われるが、朝まで社に寝泊りしていた子どもたちが灯油を全部使い切って、中は冷蔵庫のようだ。ただし、寒さはあまり感じられない。いただいたお神酒のおかげなのか…
寒くなくいとはいえ、風邪をひかないように、温泉の湯ったり村へと向かう。雪がずっと降り続けているけど、白い道は上越市内よりずっと走りやすい。感謝!対向車がきたら、大変だけど…
温泉には立派なつららがぶら下がって露天も雪に埋もれそうだ。いい気持ち…!
写真・ビデオ撮影:niko
桑取谷西横山の小正月 (鳥追い)
2010年1月14日木曜日
2010年1月12日火曜日
中野口の小正月
晴れの関東から雪の地へ
2010年1月11日月曜日
宗教意識が薄いか
仏教に神道、おまけに儒教と道教、それにキリスト教…日本にはいろんな神様がいらっしゃる。仏教が日本に伝えられたときにも、曽我家と物部家の間に争いがあったようだけど、「外国の神様とはいえ、神様は神様だ。」という見方は、どうやら当時の権力者たちを仏教の受け入れへと導いた。それ以来(いや、その前もそうだったろう)、日本にいろんな神様が共存している。それは、日本人のもつ宗教性であろう。ただし、一神教の視座からなされた多くの指摘によると、そのような宗教性は薄いということだ。
帝釈天にて
しかし、お正月は矢切の渡しを渡って江戸川の向こうにある帝釈天へお参りしたときに(これはもうわが家族の一つの伝統になっているという感じだなぁ)、今年も参詣者の数に驚いた。東京大神宮もそうだった。真夜中の氏神の小さな小さなお社にも、たくさんの人が並んでいた。お神酒をいただき、焚き火を囲んで甘酒を啜っていた。そこに、教義や教理を追求しなくてもいい。「今年もいい年でありますように」、「合格できるように」と想い、破魔矢とお守りを求めるのは、篤い信仰心の証拠だ。我々の生きている日常の世界を超え、何かを信じ、人間の世界を超越した存在を拝んだり、その力を借りようとしたりするのは、その一例なのだ。
2010年1月1日金曜日
明日も雪。降雪確率100%
今年のお正月も関東の実家で過ごしている。吹雪に追われている越後を出て峠を越えると、雪の姿はない。今度、関東平野に入ると、星空が僕らを迎えている。空気が乾燥していて妙に暖かい。
12月の雪は長持せず、みるみる解けていく。雪国らしい姿は新年とともに登場するのだ。年明けてから積り始めるとよく言われている。とはいっても、関東に出かける前に、こんな感じだった。
田んぼの道。背景には、南波山が写っている。 (撮影:niko)
真夜中に関東に着いて、その翌日は晴れ。その次の日も。お正月も。毎日晴れ。美しい青空だ。同じ国とは思えない。ただし、冬らしさはどこにもない。寒いとすら感じない。夜はさすがにストーブを付ける。こたつに入ってお茶にミカン、これこそ日本のお正月だが、窓の外に広がる白い気色が愛しい。天気予報をみたら、新潟で雪が降る確率は100%ということ。気象庁のページで積雪を調べながら(このページは実に面白い!ハマってしまいそうな...)、雪かきやっている自分を想像するだけで腰が微かに抵抗感と恐怖を発しているようにも感じるけど、雪国に帰りたくなる。今、どれくらい積っとるだろう、と我慢できず、ライブカメラで何度も様子を確かめる。
友達のお家に行く途中で、鎌倉に寄った。鶴岡八幡宮。大晦日。(撮影:niko)
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