といいながらも、クリスマスの本来の意味について一緒に少し話したいと思って今年は初めてそれに挑戦した。ただし、その話には、キリストを待ち続け、彼の降誕を祝ったという結末がない。キリスト教が広まる以前の人たちだって、暗くて厳しい冬の日々を忍んで冬至を待ち続けただろう。太陽を祝って明るく輝かしい時期がこれから訪れてくることに喜びを感じたに違いない。キリスト教はその祭祀を奪い、太陽の変わりに輝かしいキリストの存在を世界に押し付けたのだが、僕の中では、対象はどうであれ、楽しみながら待ち続けた光にこそこの行事の根源があるように思う。
チェコの伝統を守りながら、我が家のクリスマスプレゼントを、サンタさんじゃなく、”イエジーシェック”といって生まれたばかりのイエス・キリストが持ってきてくれるのだ。ソ連の衛生国だった時代に宗教は大敵であり、共産党による強いプレッシャーでロシアと同様に、クリスマスのプレゼントを宗教色の欠片もない”氷のおじいちゃん”に任せようかという動きが強まった。当時、宗教的意識がすでに低く、教会に通うチェコ人が減っていた中でも、キリスト教と密接に結ばれているイエジーシェックをチェコ人は必死に守り抜いた。その意志を受け継いだ僕のプライドか?まあ、なんといっても、聖ニコラウス伝説に、北欧の昔話などを混ぜ込んでコカ・コーラ社に作り出されたサンタさんにだけ負けたくない。クリスマスの語源だって、ギリシア語の”キリスト”にあり、キリストの降誕際を示すのだ。だったら、クリスマスを祝うのなら、消費主義大祭のシンボルとなった煙突から入ってくるコカ・コーラのキャラクターだけじゃなく、クリスマスそのものについて少しは調べてみろといいたいくらい。むろん、サンタさんでもいいし、素敵なハヌカーでもいいし、ケルト族の冬至祭でもよし...怖いのは、空っぽの”クリスマス”だ。中身を伴わない殻。
まあ、正直に、子どもにとってみれば、サンタさんであれ、イエジーシェックであれ、プレゼントをもらえば、目が輝くだろう。ただし、物事の本質を考える種をまいておきたい。その種のお世話は本人の仕事だが、ともかくたくさんの種をまくこと。
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