2010年6月15日火曜日

田んぼの真ん中でいのちを考えてる


しばらくの間、晴天が続き、田んぼの水温がずいぶん上がってきた。お風呂のようだ。僕の祖父は、暖かくなった池に浸かったときに、いつも、「あぁ~、今日も、コーヒーのようだ...」と気持ちよさそうにゆってた。稲たちも、今、同じ感覚だろう。残念ながら、稲たちだけじゃないんだ。コナギと”その他”の雑草の芽が目立つこの頃。


田んぼに入って背の伸びたやつを取ったり、苗と苗の間を手でぱしゃぱしゃと...時間が少しでもあれば、草取りをやっている。腰を曲げて尻だけを世界に向ける。この間、シャツとズボンの間が開いてしまって、背中に素敵なストライプができちゃった。夕方にお風呂に入ったら、なんかぴりぴりと痛かった。普通、お風呂入ったら、腰痛が治るのになぁ、と不思議に思ってたけど、鏡に映った自分の赤い腰に思わず笑った。


そうえいば、雑草のほかに、ゾウムシ(どうやらイネミゾウムシ)も多発。成虫は葉っぱを食ってるだけだが、幼虫が生まれたら、今度根っこを狙うようだ。少し心配になって、虫たちの多い(信号待ちみたいに葉っぱ一枚に3,4匹も並んでいるところもある)苗から、この移住者たちを取ってしまうことにした。
こうやって、お米を作るのに、雑草と虫、それに踏みつぶされたオタマジャクシ、多くの生きものたちのいのちを落としてしまう。豚や牛が可哀そうで、お肉を一切食べない人たちに訊きたい。稲には、雑草には、虫には、いのちが宿ってないのか。大きさの問題?植物と虫まではとりあえずOKで、鶏肉がもうだめか?なぜ?枯れた雑草は悲鳴をあげないから?虫は血を流さないから?なんだかよく分からない。稲を育てるために、多くのいのちが失われ、その稲のいのちも、最終的にいただくことになる。稲も、牛も、みんな生きもの。


たしかに、大量生産になっちゃうと、いのちをいただくという感覚が完全に姿を消して、牛にせよ、米や小麦にせよ、みんな可哀そう。いのちの食べ方のような世界だね。でも、まだまだいのちをいただくというありがたさを忘れていない百姓さん(畜産農家、酪農家も含めて)いっぱいあるよ。そこで、いのちを区別しないでほしい。稲も、人間も、豚も、みんな同じいのちを持ってるから。

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